バルベーラという品種のポテンシャルを、根本から考え直させられるワインを送り出してきたロレンツォ博士。土壌学者として、そして農業コンサルタントとして国内外で活躍する彼の名は広く知られていますが、意外にも彼自身がワインをボトリングしているという事実は地元のカスティリオーネ・ダスティにおいてさえ知られていません。
40年以上にわたり、自らの畑で実地に検証してきた自然な農法を信じ、葡萄樹本来の力をひきだす無施肥・無耕起・無除草・無農薬を実施しています。 「わたしは土壌の専門家であって、ワイン造りは素人」と語る謙虚な姿勢の彼は、確かに、セラーの中では驚くほど保守的。
父や祖父が作っていた通りのやり方でただ徹底的に衛生面に気をつけているだけ、という彼のワインには、いかなるプロセスにおいてもSo2が使われていません。「このセラーの中でそんな物質を見かけたことがない、必要ないのだろう」と。
埋もれていた驚愕の造り手
ダンディーでロマンチスト、そしてお茶目な教授ことロレンツォ・コリーノのワイナリー“カーゼ・コリーニ”。彼、そして彼のワインとの出会いは色々な意味で衝撃的でした。ボストン出身の女性で、イタリアワインへの深い造詣と知らない造り手はいないんじゃないかというくらいの顔の広さを持つ方がいまして、その彼女がロレンツォを紹介してくれたことがきっかけでした。彼女曰く「バルベーラで酸化防止剤を全く使わないワインを造っていて、畑は恐ろしく樹齢が古く、とんでもないこだわりで農作業もしていてetc…。自家消費レベルでなくワインを造っている人で、そんなにこだわってやって、高品質のワインを造っているのに、造り手の間で語られることがない…。」
始めは、少し大袈裟なんじゃないかと思うほどでした。そんなすごい造り手が世に出ずに本当に埋もれているはずがないと。しかし、2003年アンジョリーノの家で「ラ・バルラ1997」を初めて飲んだ時の動揺は今でも忘れられません。「なんだこれ、バルベーラで造ったアマローネじゃん。」というようなことをコメントしたはずです。完熟というより、過熟させたかのようなブドウの香り、恐ろしいまでの果実味、ヴォリューム、アルコールがあるのに凄く飲み進む…。
頭の中では?が付いたまま、数年経った2006年秋ついに彼と出会います。そしたら話の合うこと合うこと!農業に関すること、ヒトと自然…本当に腑に落ちることばかりで会話が楽しくて楽しくてしかたがありませんでした。ロレンツォは大量のエネルギー消費を伴う現代の大規模な農業に対して異を唱え、"持続可能な" 農業の重要性を地質学を専門とする学者の立場から説き、その証明の場として、家業でもあったブドウ栽培とワイン造りを行っているのです。
論理的ないない尽くし
畑では年2-3回のボルドー液の散布以外は一切の農薬を使用せず、無施肥、不耕起、無除草を実践。5-10年に1回程度ブドウの株の周りの土を起こしています。畝などは完全に不耕起で、雑草を年2-3回刈るだけ。そして樹齢の高い樹から圧倒的な凝縮感、熟度のブドウを収穫しています。セラーでも、人為的関与はできる限り避け、長期間の醗酵・マセレーションを行い、できるだけ樽の移し替えも行わず、醸造からボトリングでのどの過程においても酸化防止剤を使用しません。畑でもセラーでも "ないない尽くし" の感のあるロレンツォ、"絶対やらないんだ!" という感じに肩をいからせてやっていないのではなく、論理的な観点から "やらないこと自体が理にかなっている" と判断しやっていないように見受けられます。先人の教えの中にとても深い含蓄があることを経験から学び、そこに科学的な裏づけも取っているのです。
持続可能なワイン造り〜畑編〜
ロレンツォが良く使う言葉に"Sostenibile(持続可能)"というのがあるのですが、いい言葉だと、いつも感心してしまいます。彼の場合、畑でトラクターを使わないので土が潰れない。潰れないから、やわらかいままなので土を改めて耕す(保水性を高め、空気を含ませるために)必要がない。雑草は刈ってそのまま放っておく事で自然に堆肥化する。この堆肥は多く(収穫量)を望まないのなら、ブドウにとって十分な栄養分となる(森に肥料が必要ないのと同様)。微生物が雑草を堆肥化するために活動した際に、空気も十分に含まれることになるので、土壌がやわらかいままになる。雑草という餌があるので、微生物は増える。微生物が増えれば、他の生物にとっても同様に生き易い環境になる。そこに自然界のバランスが生まれる。そのバランスさえあれば、極端に害虫が出るということはない。
持続可能なワイン造り〜セラー編〜
セラーでも同様。彼は醸造からボトリングまで、酸化防止剤を一切使用しませんが、それはただ単に使用する必要がないから使わないだけで、それを実現するために先人の知恵に科学的理由付けをしたテクニックは駆使しますが、そのテクニックを実現するのに特別なテクノロジーや機械・設備が必要なわけではありません。エネルギー消費が少なく、無理がない。あまりにも理にかない過ぎていて笑ってしまう程です。
ブドウは完璧なものだけをセラーに持ち込むことで、バクテリアに対する過剰な心配がなくなるので、醗酵の初期段階に酸化防止剤を使う必要がない。除梗後、圧搾されたブドウは100年以上使っている大樽に入れられ、醗酵を促す。セラーにも樽にもブドウの皮にも酵母はたくさんいるでしょうから、培養酵母を使う必要がない。どんなに気温が低かったとしても、醗酵は1日もすれば始まりますが、3-4日は果帽に触れず放置。こうすることで、好気的な微生物、嫌気的な微生物とも各々が住みやすい環境で培養される。これがロレンツォのように糖度の高いブドウでも最後まで醗酵を進められる原動力になる。果帽が空気にさらされるのはバクテリア汚染や酸化の危険があるということで醸造学的にはタブーとみなされているので、できるだけ早くモストの中に沈めてあげるべきと言われている。では何故ロレンツォは3-4日置いておけるのか?樽上部は軽くふたを閉じているだけなので、樽の容積以上に発生したCO2はふたの間から逃げるが、樽内の空気は基本CO2がメインとなる(ナチュラル・マセラシオン・カルボニック!)。なので、酸化のしようがない。長い醗酵・マセレーション後、ワインはフリーランで出てきたものだけ使用する。その際、ヴィナッチャがスポンジの役割を果たし、澱をせき止めてくれる。澱がそれほど混じってないワインは極端な還元には陥らないので、澱引き・樽の移し変えを必要としない。樽の移し変えは、還元に陥りそうなワインに酸素を与えるという意味もあるが、酸素は酸化の引き金となる物質でもあり、酸化防止剤を使わず醸造・ボトリングする造り手にとっては諸刃の剣である。
理にかなった判断基準
当初、過熟気味ではないかと思っていたブドウの熟度も、彼の考える"完熟"の定義が他の人たちと全然違うところにあるということが、彼と話すことで理解できました。一般的には、糖分量と、糖分と酸のバランスなどから、収穫の時期を判断するのですが、彼は極端な話、種しか見ていません。ブドウを食べ、種を噛み砕いた時にカリッとナッツのような食感の時、種は茶色になっています。それが、種自体が次世代を残す準備ができた、成熟しきったという証で、樹であり果実であるブドウが、とあるサイクルを終えようとしているサインなんだと言います。ですから、彼のワインはヴィンテージによってアルコール度数がまちまちだったりしますが、それこそヴィンテージの天候的、気候的特徴が結実したものなわけで、毎年糖分(つまり出来上がりのアルコール度数)を見ながらブドウの収穫のタイミングを決めるよりも、判断基準にブレがないように思えるのです。
先人の教えと自らの経験が智慧となる
カミッロ ドナーティという、パルマ近郊で微発泡性ワインを造る造り手が、「昔の人は8月には収穫をするな9月に入ってからしろと言ってたから、2009年も守ってみたら、潜在アルコール度数15%の発泡しないランブルスコができちゃって…。地球自体の気候が変化しているわけだから、我々も柔軟に対応すべきなのかなぁ。」と言っていたのですが、後日、ロレンツォからこの8月が指しているものが旧暦であること、つまり8月の終わりとは秋分の日をまたぐことを指し、ブドウが冬眠から目覚め、春に芽を出し、初夏から夏にかけて成長し、秋に子孫を造る、このサイクルこそが重要なんだと先人は言っているのだと教わりました。そして彼は、秋分の日を境に、それがどんなに暑かった年であっても、日中と夜間での大きな温度差が生まれ、夜間の冷気を受けたブドウは当然のことながら日中の収穫時にも温度が低く保たれ、収穫から醸造に至るまでの過程でのネガティヴなバクテリアの繁殖を抑制できると言います。
自然に寄り添う判断が造るワインの個性
人の手をできるだけ加えずにという考え方で造られているのにもかかわらず、恐ろしく個性的であり文化的なロレンツォのワイン。高度な文明社会が、傲慢な意気込みをもって造る無個性であり非文化的なワイン。人が人らしく生きていても、自然と折り合いがつく点はあるが、多くの利害が絡むところでは折り合いはつかない、ということなのでしょう。
彼らのワインを愛してやまないのは、この様なことにも気づかせてくれたからではないかと思います。そして、少しでも多くの人が彼らのワインの中にある答えに気づいてくれる事を願います。《 輸入元資料より 》