本人曰く「2.5 〜 3ha 以上の畑になると、一人では全てをまかないきれないんだ。だからこれ以上増やさないのさ。ゴティエ・ソローや多くの先人に習って、伝統的な手仕事が可能な範囲にとどめている。彼らは石油製品にも農薬にも頼らず、月の運行が普通に頭に入っていた。ビオディナミなどという言葉を使わずにそれを実践していたんだ!」との事で、特別な事と意識せずビオディナミを行っています。そしてAOCに囚われないワインをリリースしています。
オルレアンからロワール川の左岸に沿って西へ15kmほど下ったところに、ルイ 11世が埋葬されたバジリカ大聖堂のあるクレリ・サン・タンドレ町がある。その町の外れにレイナルドの小さなカーブが存在する。
畑の総面積は2ha。ロワール川を挟んで小さな畑を6区画所有する。アペラシオン的にはAOCオルレアン、2006年に新しく認定された総面積150haほどの小さな区域だが、セパージュのアッサンブラージュや醸造方法がアペラシオンと馴染まないため、レイナルドのワインは AOC の申請をせず全てVdFで仕込んでいる。
土壌は、ロワール左岸はワインに硬質かつ真っ直ぐなミネラルを与えるシスト土壌、右岸はシストに加えて、ふくよかでアロマが高く深みのある味わいを生む石灰質・粘土質が多く含まれる。大きく2つ異なるテロワールがそれぞれ特徴豊かなワインをつくりだす。気候は西から来る海洋性気候と東の半大陸性気候の両方の影響を受ける。冬に雨が多く、夏も比較的湿度があり、1年を通じて寒暖の差が少なく気候が穏やかなのが特徴。
オーナーのレイナルドは、祖父がブドウ栽培を行っていたが、家系的にはワイナリーとは無縁の環境で幼少期を過ごした。高校を卒業後、会計士を目指すために会計簿記の学校に通い、同時に会計事務所で研修をしていた。こ の当時はまだワインにあまり興味がなかったレイナルド。だが、彼が 21 歳の時、今は税関で働く友人から何気なくフランス映画俳優ジャン・カルメが著作のフランスワインガイドをプレゼントされ、彼自身俳優ジャン・カルメのファンだったこともあり、その本がきっかけでワインの世界にどっぷりのめりむ。以来、彼は会計の勉強よりもワインの勉強に時間を費やすようになる。
ワインの世界に入る前からビオの食品など食べ物に気をつけていた彼は、この頃ガイドの中で紹介されるワインよりもむしろクロ・ロッシュ・ブランシュ、クロ・デュ・テュエ・ブッフ、レ・カイユ・デュ・パラディなど、トゥーレーヌの自然派ワインを好んで愛飲していた。
1997年、会計学校を卒業後、親の反対を押し切り、サン・テミリオンにあるワイン学校(BTS)で2年間栽培と醸造を学ぶ。そして、1999 年、BTS終業後1年間ニュイ・サン・ジョルジュのドメーヌで従業員として働く。ワインの世界を知り始めた時から自らのワイナリーを立ち上げる決心をしていた彼は、その後、立上げの準備のために地元のクレリ・サン・タンドレに戻る。2000年、地元のワイン農協で働きながら同時に立上げ準備を進め、2004年ドメーヌをスタート する。同時に、当時からレ・カイユ・デュ・パラディの良き個人顧客でクルトワとも親しい間柄だったレイナルド。2005年に「自らのドメーヌと掛け持ちしながら従業員として働かないか?」というクルトワからのオファーがあり、それを快諾し、現在ドメーヌとレ・カイユ・デュ・パラディの従業員の二足のわらじを履く。
レイナルド・エオレは現在2haの畑を一人で管理している。同時に週3日はレ・カイユ・デュ・パラディの責任者として働いている。彼自身のモットーは「ブドウのもつミネラルとフィネスを最大限ワインに反映する」ことと「ユニークであること」で、彼の赤ワイン「L’Insoumis」のエチケットに描かれる黒い羊に象徴されるように、性格的にはグループに属するのを好まない一匹狼的なところがあり、彼のワイン哲学にもその独特の世界観が色濃く表れている。影響を受けたワイン生産者は、栽培面でクロード・クルトワひとりのみ。醸造面は自らの舌とセンス、そして経験を信じて独自のスタイルを編み出す。趣味は料理と読書。ちなみに得意料理はキノコを使った煮込み料理。彼にとって料理を美味しく作ろうとする情熱とワインを美味しくつくろうとする情熱は等しく同じとのこと。(輸入元資料より)