自身が共同経営者の1人でもあったレストランでソムリエとして働いていたダニエーレ・ピッチニンは、そのレストランの権利を売却し、2006年に自らワイン造りを始めた。畑はヴェローナ北東部、サン・ジョヴァンニ・イラリオーネという町の郊外にあるチーモ山の、標高300mから450mの南東向きの斜面にある。
自ら開墾した畑には、この地域に1000年近くにわたって存在したことが確認されている白葡萄品種であるドゥレッラと、気象条件や標高が適合するのではという考えからピノ・ネーロが植えられている。現在リリースされているワインは、賃借した1.6ヘクタールの畑(平均樹齢20年)のもので、醸造はアンジョリーノ・マウレのセラーで行っている。畑ではバイオダイナミクス農法を実践。シャルドネはステンレスタンク、ドゥレッラとロッソは古い小樽での醗酵・熟成。
感性と情熱と信念で行動する人
ダニエーレ・ピッチニンは、もともとレストランの共同経営者の1人として、ソムリエを担っていましたが、2003年にアンジョリーノをはじめとする造り手たちのワインと出会い、それまでのワイン観を大きく覆されます。 比較的近所だったということもあり、アンジョリーノと仲良くなり、とある日、畑やセラーでの仕事を手伝わせてくれないかとアンジョリーノに依頼します。ソムリエがちょっとワイン造りを知ったつもりになりたいんだろうと高をくくったアンジョリーノが安請け合いすると、ダニエーレはレストランが休みの日は毎回、朝6時にはアンジョリーノ家に現れ、終日畑仕事からセラー仕事までを手伝っていたそうです。
そして2006年、レストランの権利を売却、自らワインを造る決心をします。 驚くべき事に、ワイン造りを始めるにあたってはアンジョリーノに何のアドヴァイスも請わずに事を決めてしまいます。畑の場所に関しても、アンジョリーノの本拠地、ガンベッラーラでやるという選択肢もあったはずですが、自らの生まれ故郷であるサン ジョヴァンニ イラリオーネを自身のワイン造りの地として選びます。なぜなら「自分の生まれ育った場所の土着品種の復興を願って」というのが理由だと言います。
土着品種復興の想いで山を開墾
1000年以上前からこの地域で栽培されていたことが確認されているドゥレッラという白ブドウがありますが、残念なことに、年々栽培する人が減っています。このドゥレッラ、もともとはRabiosa(ラビオーザ、過激な、の意)と呼ばれていたそうで、名前通り、鋭い酸、強いタンニンが特徴の品種になります。ただでさえマイナーな上に、酸が恐ろしく強いこともあって、シャルドネなどの国際的な品種か、ガルガーネガのような土着でもメジャーな品種に植え替える人がほとんどで、未だに栽培している人の大半は、その酸を利用してスプマンテを生産していたりします。ダニエーレは、本当に完熟したドゥレッラならば、絶対に偉大な白(スティルワイン)を造れると信じて、ムーニにある家の近くを開墾してドゥレッラを植え、ムーニよりもさらに標高の高い(海抜500m)場所には、土壌、標高の高さ、気候などが合っていると考え、ピノ・ネーロを植えます。当然植えたばかりの畑からはブドウは生りませんので、1.6ヘクタールの樹齢約20年のシャルドネ、ドゥレッラ、カベルネ、メルローが植わる畑を別に借り、この畑から獲れるブドウで、ビアンコ&ロッソ デイ ムーニを造っています。2009ヴィンテージまでは、アンジョリーノのセラーを借りて醸造、ボトリングを行っていましたが、2010年にはムーニにセラーが完成し、いよいよ彼一人でのワイン造りが始まります。
師匠アンジョリーノの小言
一方で、2006年に畑を開墾するにも何の相談もなかったことに気分を害していたアンジョリーノ、ピノ ネーロの畑に関して、 「大体もともとブドウ畑でさえなかったあんな辺鄙な場所に畑作るなんて…歴史的にブドウ畑じゃなかったってとこに理由があるとか考えなかったのかな?そんなとこをわざわざ開墾してまで…俺に相談してくれてたら、絶対にやめさせたね」とのこと。そしてダニエーレのピノ・ネーロ2007が近くの2つ星のレストランで大絶賛されたという話を本人からではなく、他人から聞いて、「あれも俺が今ボトリングしたほうがいいんじゃない?って言ったものが褒められているわけで…なんで俺に一言もないんだろ?」そしてさらにセラーに積極的に招待してくれなかったことにも少々気を悪くし、本(AndreaScansi 著「il vino degli altri」ちなみにヴィナイオータも2回登場します!)の中でも、「俺は与えるばっかりで、若い子達は俺から受け取るばっかり。うちのセラーでうちの樽を使って造ったワインなのに、いざボトリングされたら飲ませてもくれないし…。全然しゃべってくれないは、他人づてで今彼らが何やってんのか聞く始末だし。なんでも、そのうちの1人はドゥレッラで(ナチュラルな)スパークリングを試しているって話だし…。」とブツブツ。
弟子は勝手に育つ
そんなアンジョリーノに対してダニエーレは、自身のセラーを急いで完成させて、アンジョリーノの元を離れたかった理由をこんな風に話しています。 「当たり前だけど、畑から近いからこっちの方が何かと便利だしね。アンジョリーノのセラーだと、やっぱり彼に甘えちゃうし、それはそれで居心地は良かったんだけどね。アンジョリーノからは本当に色々教わったけど、いくつかのことに関しては、俺は俺ですでにアイデアもあるし、それを試してみたいし…。自分のセラーで、すべて自分で決めて、すべて自分で責任取れるようなったことが何よりも嬉しいよ。いろいろ間違いを起こすことがあるかもしれないけど、その覚悟もできているし、それが絶対に今後の糧になると思ってるし。」
煌めく強い信念
彼の強い信念は、2007年ヴィンテージのビアンコ デイ ムーニにおいて、微細な醗酵がなかなか終わらず、結局本来のリリースのタイミングより約1年遅くリリースさせることを決めた際にも見て取れます。スタートしてわずか2年目の造り手が1年リリースを遅らせるということは、1年間まるまる収入が得られないということを意味します。たとえ収入が得られなくても、納得のいくワインを造りたいというダニエーレの決断が、どれほど大変な事であったか。しかし、そのワインが完成し、ボトリングされたものを飲んだときの感動は、まさに彼の大英断を裏付けるものでした。一方で、同じセラーのアンジョリーノは、通常通りのタイミングでボトリングしてしまって、若干のトラブル(サッサイアの酸化防止剤無添加Ver.は還元し、添加Ver.は微発泡)が生じていました。チーム・アンジョリーノというくくりにはなると思いますが、師匠にさえ迎合しない強い信念をもってワイン造りをするダニエーレ、これくらいの気構えの持ち主のワインだからこそ、アンジョリーノのワインの良きライバルにまでこの短期間で上り詰めたのではないでしょうか?
(輸入元資料より)